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今夜は満月

今夜は満月。特にスーパームーンと呼び、月が地球に最も近づき、満月と重なり最も大きく見える月の事を言うそうである。テレビのニュースでも盛んに中継されていた。暑い夏も、いつの間にか過ぎ去り、朝夕吹く風にも秋の気配を感じるようになってきた。爽やかでまことに清々しい限りである。

 記憶に残る満月というと、10年ほど前に京都で見た月を思い出す。仕事帰り、同僚らとささやかに一献傾けようと、御池通りを祇園へと歩いていた時のことである。急にあたりがざわめき立つ。何事かと顔をあげると、東山の上にぽっかりと、大きな大きな満月が上ってきていた。東西にまっすぐに伸びる御池通りの延長線上に、道路幅一杯に大きな満月が上ってきていた。暫し見とれてしまう。居酒屋へ行くのも忘れるぐらい見事な満月を堪能した。

 同じような満月は、過去何度となく見ていることと思うが、今でも鮮明に記憶が残っている理由は、京都・三条・東山・祇園というシチュエーションによることが大ではなかろうか。そして何より居酒屋というキーワードが異常に満月の高揚感を湧き立たせ、鮮明な記憶につながっているように思う。

 記憶というキーワードにつながる話として、高齢者と接していて、「物覚えが悪い。記憶が曖昧になる。」などとよく聞く。

 認知症の症状の表れ方の一つとして理解している。例えば、食事を終ったばかりというのに、まだ食べてない。という方がいる。「健忘症」である。また、2~3日前のことは忘れていても、昔のことはよく覚えている方もおられる。太平洋戦争の時、風船爆弾を作っていたというHさんは風船の作り方などお話をしてくださるが、ご主人が3月に入院加療されたことは記憶にないらしい。「短期記憶障害」である。また、物が無くなった。ヘルパーが盗った。と言い張る方。腹立たしい事この上ないが、一緒に探して見つけると、泥棒が戻してきた。「妄想」である。

 このように書いているが、私たちは医療従事者ではない。介護者である。医療的学術用語を並べて、高齢者を判断してはならないと思っている。ただ、高齢の方や障害を持っている方を理解し、よりよきケアの一助になればと思い、日々研鑽を重ねなければならないと考えている。また、介護を必要としている方は、認知症が進めば進むほど、介護者の表情、感情など、鋭く感じ取ると聞く。分け隔てない介護、真摯な態度でケアを提供する事業所として歩みたいと思っている。

我が故郷

倉敷 我が故郷 (ある種 倉敷びいき)


私の生まれ故郷は倉敷である。他郷に住んで早40数余年が経つ。その間幾度となく、「倉敷が故郷」と言えば、10人中8,9人の方は異口同音に「良いところですね。」 まだ一度も言ったことがないと言う人でさえも同じことを言ってくれる。そのやり取りの中、私の抱いている倉敷感との絡みの中で束の間、懐疑的な思いや自尊心がくすぐられ、親しみ、嬉しさ、懐かしさ、気恥ずかしさなど複雑な思いに浸ることがある。

生まれてから18年間しかいなかった町、他郷暮らしが倍以上長くなっても、やはり倉敷に憧れる。

かと言って倉敷に住もうとは思わない。一歩距離を置いて眺める町、私にとってそのような街である。

同じような街に京都がある。勤務の都合で、京都に20年ほど通い詰めたことがある。その間、 7年ほどは居を構え、日々の生活をした町である。京都を印象付ける史跡旧跡、四季折々の風情、祇園を代表とする花街での夜など、京都らしさは一通り堪能したつもりである。今でも懇意にしている西陣の料理屋「大芳」には、年に一二度は訪れる。

私の敬愛する作家の司馬遼太郎氏の言葉を借りると、「いつでも行けば会ってくれる知人は、飲み屋のおかみしかないものだ。その美味で人恋しさをこの店で紛らわせる。『ほんまどすかいな』と、彼女に肩をどやされそうだが」(司馬遼太郎が考えたこと3より)

同じく司馬氏の著作のなかで、倉敷を描いたものが数冊ある。紹介したいが、前述の「良いところですね」と言っていただいた人々以上に、気恥ずかしさ、懐疑的な思いを感じる.
しかし、司馬氏が倉敷を訪れ、これらの文章を書かれた時は、今から50年前で、私の中学1年のころの倉敷であり、現在の観光地化されてしまった倉敷ではない。

「倉敷・生きている民芸」から抜粋してみる。
町の古めかしさを誇り、屋敷の柱のアメ色にまでなった年代のつやをひそかに楽しみ、軒灯も明治風のガス灯を断固として蛍光灯に付け替えず、そういった頑固人が何人も町を歩いている。・・・台風が過ぎた夜は倉敷では星がきれいなのです。・・・・私は実のところ、この町に偏見をもっていた。民芸の町ということについてである。・・・民芸という言葉は汚れている。・・・いかがです、これこそ文化なのです。としゃにむに説得されているような、なんというか被害意識というものが多少あった。・・・翌朝、宿を出た。柳と白壁のまるで芝居の書割のような、そこを歩くのが面映ゆいほどに美しい街を、私は歩かねばならなかった。自然私は急ぎ足になった。平素ガサツな街に住んでいるいわば泥水暮らしの人間が、これほど見事な秩序の一角に立たされると、どう歩いていいのか、足が絡むような照れくささを覚えるのである。昔、この前神川の近くに倉敷代官所があった。この付近から四国の讃岐にかけての天領を支配していた代官の所在地で、大名領式でいえば倉敷は20万石以上の城下町に匹敵するのではないか。・・・倉敷人の性格は何か、とこの土地で聞くと、三人に一人は≪天領根性≫と誇らかに答えてくれる。『わしらは天領の町じゃけんな』という一格高い意識がいまだに倉敷人の中にある。天領は100年前には亡びたが、しかし町の誇りは失せてない。・・それほど、自負心の強い街である。その自負心の根拠は、いまでもこの町の美しさにかかっておる。・・・人口12,3万のこんな小さな町に、天文台、考古館、歴史館、民芸館があり、この町を有名にしている大原美術館には、本館の西洋美術館のほかに、新館には日本人の作品を並べ、ほかに陶芸館、版画館がある。・・・何棟かあるすべてが、黒い瓦に白い壁、それに張り瓦でもって実用的装飾をほどこした古い倉敷風の米蔵だからである。その異様な美しさはわれわれ日本人にさえ十分に異国的であったし、同時に目の覚めるほど斬新でもあった。『えらいものですな』と言って私はだまった。民芸とはエグイもの。アクの強いもの、という先入主をこの構内に立っている限り捨てざるを得なかった。美術館を出て、横の喫茶店に入った。飲み物を注文してから、ふとこの喫茶店の屋号が『エル・グレコ』ということに気付いた。それを知って、なんとなく、倉敷中がすべて美の探究者であり、行者でさえあるような気がしてきた。・・・とまれ、倉敷という町は、日本の他の町とはひどく違っている。平素思いもよらぬ意識を色々と呼び覚ましてくれるようである(古往今来より)

 繰り返し断っておくが、昭和39年ごろに司馬氏が倉敷を初めて訪れられた時の印象である。倉敷びいきの私にとっても、何とも気恥ずかしい思いをする文章である。と同時に、今の猥雑で雑多な観光地化されすぎた倉敷を見られたなら、司馬氏は又違った印象を持たれそうな気がする。《美しさには秩序が必要である。》同じく司馬氏が語っている。

我が故郷、倉敷はやはり一歩おいて眺める町でしかないと思う。世の中夏休みになり、帰省とは縁遠い生活を送っている私にとって、ふと我が故郷を思った次第である。


《故郷忘じがたく候》

ある夏の思い出

ある夏の思い出
 蝉の鳴き声がうるさくて目を覚ます。台風8号が吹き抜けた翌日から、途端に蝉の大合唱が始まった。それまでは、蝉も鳴かず今年はいつもとは違うのか、昨年までの大喧噪と比べ静かなのかなと喜んでいた。ところが、そうは問屋がおろさない。とばかりの容赦ない鳴き声のシャワーが降り注ぐ。

 事務所には虫かごと虫取り網が置いてある。以前は幼児用の簡易ビニールプール(特大サイズで幼児なら5~6名使用可)も置いてあった。何れもある利用者の為に用意したものである。今から5年前に、当時小学2年生のダウン症の男の子Y.O君を支援したことがあった。虫かごや網、プールはその時に支援の一環として必要と思い用意したものである。コミュニケーションを図ることができるものと思っていた。 
 
 ところが、こちらの思惑など意にも解さないY.O君。近くの公園に虫取りに出かけると、ブランコや滑り台など、遊具で遊ぶ。仕方なく(実際は喜んで?)蝉を一匹捕まえて、Y.O君に見せる。掴んで持たせようとする。怖がって持とうとしない。仕方なく虫かごに入れると、途端に蝉が鳴き始めた。その鳴き声に驚き、怖がりそれからは蝉など見向きもしなくなった。他のトンボなどもしかり見向きもしない。触ろうともしない。
 私たちが子供の頃、熱中していた虫取など興味がないのである。

 夏休みに入り、今度はプールで遊ばせてあげようと思い、朝からプールを準備する。大家さんに特別に許可をもらった事務所裏庭のスペースに、自転車の空気入れを使って膨らます。こんな大きなのを買わなければ良かったと悔やみながら、しかし喜んで遊んでくれたら。色々な思いが輻輳する。9割がた膨らまし、水道代を気にしながら水を張る。Y.O君だけでは勿体ないと思い、近所の子にも声をかける。Y.O君の自宅まで迎えに行き、用意していただいた水着や着替えを持って事務所まで戻る。早速着替えてプールに行く。小学1年生、幼児園の女の子2人が遊びに来てくれ、プールで水遊びを始めている。熱中症を心配する陽気の中、私自身が入りたいような天気、でもY.O君はプールに入らない。無理やり掴まえてプールに入れようとすると、嫌がって怒り、挙句の果てにこちらの腕を噛もうとまでする。興味もなく面白さも感じないのかと思い、仕方なく好きにさせる。事務所へ帰るのかと思いきや、水道のホースを持って、プールの中にいた女の子たちに向かって水をかけ始めた。Y,O君にとって女の子たちの反応が良かったのか、暫し水かけに熱中する。私もずぶ濡れになる。女の子も小さなバケツで反撃する。Y.O君もずぶ濡れになる。今度は喜んでいる。初めて笑顔になる。しかし、最後までプールには入らなかった。

 Y.O君を通して、支援というもののあり方を問われた気がする。
 
 利用者に即して支援を考える。と良く言われるが、虫かごや網、はたまたプールはY.O君にとって何だったのだろう。
支援する側の一方的な思い込みだけのものでしかなかったのではないか、これだけすればきっと喜んでくれる。支援も上手くいく。と勝手な思い込みで物事を進めたのではないか。私自身の傲慢さに気付かされた思いがした。

 利用者はY.O君のような障害児だけではない。様々な事情を抱えた高齢者も沢山おられる。日々接していて、支援者側の一方的な思い込みによってのみのサービス・支援になっていないか、今一度省みることが必要ではないのか。そのことを気づかされたある夏の思い出である。

 今も事務所横に虫網を、倉庫には虫かごを置いてある。使うことはないものであるが、いつも目に触れ折に触れ、私自身の介護事業・支援事業の原点を認識するものとして、自戒を込めて置いてある。

眠れぬ夜が続く。

スポーツ万歳!!

 此の頃、寝不足の日々が続いている。原因は言うまでもなく、サッカーW杯である。

 スポーツを見るのが好きな私は、中でもサッカー大好きである。
 サラリーマン時代、仕事の関係から、ヴィッセル神戸とコネクションを持っていた。
 試合も良く見に行き、選手達とセレモニーのある日には、三男を連れて行った事もあった。当時は、“キングカズ”の三浦和良選手や、得点王にもなった播戸竜二選手、カメルーン代表のエムボマ選手と言った多士済々のチームで、特に三男にとって、キングカズと話が出来「あなたにあこがれてサーカーを始めました」と言えた事とか、播戸選手と親しく話が出来た事とか、三男にとっては興奮冷めやらぬ楽しい思い出になっている。

 W杯の日本チームは、残念ながら決勝トーナメントの出場は難しい状況になった。本田がどうの、香川がどうの、と言った事ではないと思う。日本も確実に強くなったと思うが、相手はそれ以上に強くなっている。強いチームを作って来ている。特に中南米のチームは強い。無敵艦隊と言われたスペインの凋落ぶりはひどい。ヨーロッパ勢の中では、私はベルギーがいい試合をすると思っている。

 スポーツの中でも、特にサッカーは何が起こるか解らないスポーツである。審判の笛の一つで流れが変わることがある。10秒で1点を取る事が出来るスポーツである。決してあきらめてはいけないスポーツである。それだけに醍醐味のあるスポーツとも言える。

 このように書くと、観戦態度はいかにもクールで、冷ややかに見ているかのように思われるが、実態はかなり違う。気を抜いたプレーをしようものなら、怒声・罵声が飛ぶ。「何やってんじゃ!」ゴールを決めたりナイスプレーなら、「よし!ようし!」と歓声に変わる。周囲の人たちの、うんざりした表情も何のその。テレビにしろ試合会場にしろ変わらない。体育系応援団の気質は今もって健在である。

 話は変わるが、今年のプロ野球は面白くない。特に阪神タイガースの試合は情けない思いがするのは私だけだろうか。奮起を期待する。

 余談になるが、ラグビーのW杯も来年に迫っている。監督もエディに変わり、テストマッチ負けなしで、10連勝の偉業達成。世界ランクもいつの間にか10位になり、強くなったものである。2019年日本で開催されるW杯が楽しみである。

  7月14日の決勝戦まで、まだまだ眠れぬ夜が続く。 だが、安心してほしい。昼には気が向いたときに、会社で昼寝をしている。誰に気兼ねをすることなく・・・。

新緑の京都

久しぶりの休暇、新緑の京都の一日

 GWの真っただ中、快晴に恵まれた五月四日、山笑う景色を満喫しながら一組の夫婦の結婚式に参列した。場所は京都の二年坂、高台寺や清水寺に近く日本画家の重鎮であった竹内栖鳳画伯の旧邸宅「東山艸堂」で行われた。沢山の庭木が建物周りを取り囲んでいて、観光客の喧騒も気にならない素敵な場所で行われた。式は今流行の人前結婚式で執行された。バイオリンとチェロの生演奏が流れ、厳かな雰囲気を醸し出す。新郎の入場に次いで、お父様にエスコートされた新婦が入場する。新婦のにこやかな表情に心から「おめでとう」の言葉を贈る。指輪の交換、ベールをとってのキッス。そして、参列者全員の承認の拍手で、式は滞りなく終わる。まことにあっけないものであるが、シンプルで爽やかな、本当に五月晴れを絵に描いたような結婚式を味わった。

それから、久しぶりの京都を楽しむ。式場の目と鼻の先の高台寺に行く。折から、秀吉と寧々の木像が修復され展示されていた。寧々の木像を観ながら、○○さんに似ているね。と、まことに下世話な話に陥るが、東山を借景にした庭園の様子に救われる。

高台寺を後にして、円山公園・八坂神社・祇園をひたすら歩く。途中のソフトクリームの美味しさに舌鼓を打つ。

京都に来るとよく訪れている北山の植物園に足を延ばす。前回は二年前の六月に来たときは、大輪の芍薬が咲き誇り、満開のバラを堪能した記憶が蘇る。今度は時期が早いせいか、芍薬もバラもツボミ状態、代わりに石楠花が咲き、清楚で大好きなシャガが咲き乱れていた。高山植物特別展では生まれて初めて「クロユリ」を見ることが出来た。思ったより小さく、厳しい環境の中で生き延びてきた強かさと気品を感じた。クロユリと寧々の木像を相次いで見たことで、一つの物語を思い出した。
時は戦国時代の終焉、柴田勝家と同じく、秀吉に敵対していた佐々成政は、罪赦され肥後一国の大名となった。何故かくも寛大な処遇を与えられたのか訝しんだ成政は、寧々のお蔭ではないかと邪推し、寧々の為に何かお礼をしたいと考えた。そこで思いついたのが初夏の頃だけしか咲かない貴重な「クロユリ」を贈ることを思いつき、家臣を集めて採取させ、枯らさないように万全の配慮をし、クロユリ数株を寧々に贈った。喜んだ寧々は早速大阪城の女どもを集め、クロユリを鑑賞させた。その中には勿論淀君もいた。クロユリの魅力に取りつかれ、寧々に対して対抗心を燃やす淀君は、数年して石田光成に命じてクロユリを集めさせた。淀君に取り入る絶好の機会と思った光成は、数千株のクロユリを集めてきた。数千株のクロユリが咲き誇る様を見た寧々の驚きは、やがて成政に対する憤り、怒りとなった。物語はここで終わるが、その後佐々成政は、肥後に起こった一揆の責めを負って秀吉から切腹を命じられている。

教訓その1 女性には安易に贈り物はしないこと。

Appendix

プロフィール

【名前】
おっちゃんヘルパー
【年齢】
65歳
【一言】
≪絆≫を大事に。
ヘルパーステーション
ケアプランセンター
お結び
お気軽にお問い合わせください。

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