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でんでんむしのかなしみ

新実南吉が書いた童話「でんでんむしのかなしみ」という本があります。

一匹のでんでん虫がある時、大変なことに気が付いた。「それは
自分の背中の殻には悲しみが一杯詰まっている。もう生きていけない。」

そして、どうしたらよいのか、お友達のでんでん虫に相談しに出かけ
ました。お友達のでんでんむしが言うには「あなたばかりではありま
せん。わたしの背中にも、悲しみはいっぱいです。」 それじゃ仕方
ないと思って、でんでんむしは、別のお友達の所へ行きました。
すると、そのお友達も言いました。「あなたばかりではありません。
わたしの背中にも、悲しみはいっぱいです。」

こうして、でんでんむしはお友達を順々に訪ねていきましたが、
どのお友達も同じことを言うのです。

そして、とうとう初めのでんでんむしは「悲しみは、誰でも持って
いるのだ。わたしばかりではないのだ。わたしは、わたしの悲しみ
を、こらえていかなきゃならない。」と気が付いた。
そして、このでんでんむしはもう嘆くのをやめたというのです。

人は誰でも、苦難や悲しみに出会うと、「どうして、私ばかり」と嘆きます。

しかし、人は誰しも、皆同じように苦難に出会います。
苦しみます。悲しみます。嘆きます。そして悩みます。

そしてその人は、同時に苦難を乗り越える方法を探そうとします。
簡単に見つかるなら、あるいは苦難とは思わないかもしれません。
しかし、容易に見つからない場合にはどんどん深みに入ってしまい
ます。精神的に追い込まれ、負のスパイラルに嵌ってしまいます。

しかし、いつかは解決しなければなりません。

人によって解決方法はさまざまでしょうが、多くの人の場合、
でんでんむしと同じように友達に相談する場合が多いと思います。

相談する人、話が出来る人を持っていることは幸せなことだと思います。
そして、誰でもどんな境遇の方であろうとも同じなんだ。そういう観点で
物を見る事が必要なんだ。と思います。

今、自分はダメなんだ。と思っておられる方がもし居られたなら、
でんでんむしを見つけに行きませんか。見つけたら、でんでんむしと
ゆっくりお話ししてください。

でんでんむしに教えてもらってください。「悲しみは誰でも持っているのだ。」と。

日めくり

私の机の横に、大きな日めくりがぶら下げてある。土建屋に勤める友人のN君から、昨年末頂いた。                 日めくり3
  
 土建屋の日めくりらしく、下1/3は自社の保有している大型重機の写真や広告で、上2/3に暦注が書かれている。
 暦注には、日付、七曜(曜日)、二十四節気などの科学的、天文学的な事項や年中行事が書かれ、中断には十二直、選日、二十八宿、九星、などの非科学的、迷信的な事項が書かれている。
 
 朝、机に座り、日めくりを繰るのが日課になっている。
 今日2月4日は立春。日めくりには、「冬の陰気に閉ざされた万物に、春の陽気が立ち初める日」と書かれている。

 私は、この「立春」という言葉が好きである。
 まだまだ、寒い日は続くが立春が過ぎれば、どことなく春めいた気持ちがする。
 
 個人的にも何となく活動的になりそうな気がする。今年のような寒さを痛感していると尚更のように思える。
 
 今の私の心境を見事に表している詩がある。江戸時代に日田で咸宜園(カンギエン)という私塾を起こした広瀬淡窓という方の詩である。
  
  客冬は雨雪多く、新歳は尚氷霜あり、
  道ふことを休めよ 梅花晩しと、終にまさに艶陽に綻ばんとす
 
<昨年の冬は雪や雨が多かった。新年になっても氷霜があって厳しい寒気が続いている。だが梅の花が咲くのが遅いと嘆くことはない。間もなく暖かな日差しに綻びようとしているのだから。>

  葉室 麟という作家が書いた「霖雨」の中に引用されている。
 小説の帯には、凛として生きる。たとえ雨が降り続こうとも。と書いてある。

 冬の寒さが無ければ育たない植物もある。冬の厳しさが無ければ春の暖かさも判らない。
 
 我々の拙い生き方の中でも、幾度となく冬の寒さを覚えるような試練を経験した。また、それを乗り越えてこれた自負もある。そこには、必ず春が来る。必ず雨も上がる。という期待があればこそできたことである。

  「凛とした生き方」にはほど遠い生き方かもしれない。ただ、これからも誠実に生きていこうと思っている。
 




賀状を作りながら

     後悔と懺悔そして感謝と感動

 今年も賀状を作りながら、この時期は一年を振り返り、自分の歩みを省みる事の出来る良き時期ではないかと思う。
 この一年の私について以下に記す。

 自分の一年はどのようであったかを問うてみるに、相も変わらず後悔と懺悔の思いが募る。何気ない仕草、大したことがないと思っていた事が、如何に相手を深く傷つけたのか、思い知らされた事があった。「相手に対して思いやりが大切」と口癖のように言ってた自分に対して、腹立たしく情けない気持ちに一杯になる。今更ながら相手に対して申し訳なく済まない思う。

 今年も多くの出会いを通して、感謝を覚えることが多くあった。
 まず、介護タクシー事業では、申請から許認可取得に関して、門外漢の私に対して、陸運局の関係者の方が親切・丁寧な対応して頂き、無事にスケジュールどおり、許認可を取得できたことである。特別に、行政書士の手を煩わせることなく取得できたことで、経費面でも助かった。また、その後の事業も順調に推移していることも感謝したいことの一つである。

 ヘルパー部門では、今年も数名の方の最後を見送ることがあった。在宅で最期を送りたいとのご本人やご家族の要望により、訪問看護師の方々との連携により、最後まで在宅で生活され、無事穏やかに見送ることが出来、ご家族からもご丁寧なお言葉を頂いたことである。ヘルパー冥利に尽きる思いがした。

 このブログを見ていただいてる中学校の時の同級生のNさんからハガキが届いた。それは、前々回のブログ「おでん」の中で、弁当のおかずにメザシがあったことをNさんは覚えていてくれ、そのことを教えていただいた。Nさんは当時、隣の席で印象に残ったようで、覚えていてくれたことに驚くとともに、嬉しかったしそのことに感動した。

 Nさんのハガキから思い出したことがある。
 母の葬儀に多くの友人が会葬に来てくれた。有難い気持ちと共に少し気恥ずかしかった。
葬儀が一段落した時、三郎叔父(父の弟、中学校の教員)から、「順造!今日、沢山友達が来てくれてたが、今度学校に行った時に、お前がきっちり挨拶できるかどうかで、お前の真価が問われるぞ。」と言われた。

 登校した時のホームルームの時間に、恥ずかしく照れ臭かったが叔父の言葉に後押しされ、自分なりに挨拶が出来たと思う。挨拶が終わった時、Nさんがすかさず「立派よ」と言ってくれ、その一言で照れ臭い思いが吹き飛んでいき、且つ嬉しかったことを思い出した。すごく大人になった思いがした。改めてNさんありがとう。

 平素は覚えてない事でも、嬉しかったことや感動した事など、良き思い出は何かの切っ掛けがあれば、たちどころに思い出すことが分かった。これからも後悔と懺悔の繰り返しの日々が続くと思うが。出来るだけ良き思い出となるような事を多く経験したいと思っている。

熊野街道

 久しぶりに古書店に出かけた。「鳳百年史」という本が目に留まり早速購入した。
 鳳小学校創立百年を記念して、小学校の関係者が出版した鳳地区の歴史、風俗、産業など多岐にわたる内容を網羅した本である。
 このような本は単なる小学校の変遷を書き記したものが多いと思っていたが、その内容の潤沢な事に驚き、興味を持って読むことが出来た。
 
 それは、この地区が持っている歴史的な長さ・豊富さに由来すると思われる。
 地区の中心には古代より現在に至るまで大鳥神社が鎮座し、弥生時代の遺跡である四つ池遺跡があり、天平時代では僧行基が生まれ成長した所であり、また行基による多くの業績が残っており今でもその恩恵を受けている地区である。また、平安時代以降、地区を貫くように熊野街道(小栗海道)が走っている。
 熊野街道は熊野への参詣道で、<蟻の熊野詣>の言葉もあるぐらい賑わった街道で、多くの逸話も残っている。

 私の事務所の前面の道路はその熊野街道に面している。下記の写真は事務所前の道路の写真である。
  街道2 街道3

 また、事務所から10m程行ったところに、熊野街道と父鬼街道の交差点を示す道標もある。

             道標2
 右側面には、右:伯方、牛滝、岸和田とあり、左側面には、右:堺、住吉、大阪、左:三林?、父鬼、天野山と書かれてます。
    
 往時の面影は見る影もないが、盛時を誇ったであろう有様を思うと、歴史浪漫の旅に旅立つことが出来る。

おでん

 記憶に残る料理というものを、私が初めて作ったのは中学2年生の晩秋だった。

 初夏から盛夏にかけて、母と祖母が相次いで亡くなり、弔いの儀式が全て片付いたのが冬の足音が聞こえてくる頃だった。兄は勤務地の茶屋町に、大学生の姉は大阪へとそれぞれの生活に戻り、父と二人暮らしが始まった。教員をしていた父は、母の病気を機に、県北の井倉小学校から隣接の玉島の寄島小学校に勤務地が変わっていた。隣接しているとはいえ、バス・電車に頼っていた時代のこと、バス・電車を乗り継いでの通勤時間は、1時間以上は優にかかっていたと思う。たどり着いてから私の為に夕食を作り始め、夕食が始まるのが8時は過ぎていた。父にとって、50歳過ぎてから始まった私との二人暮らしの生活は随分と過酷なものだったように思う。

また、中学校は給食ではなく弁当が決まりだった。父にそのことを話すと、「明日から作る」と言って朝早くから用意をしてくれた。定番のおかずは卵焼きだった。砂糖のきいた甘い卵焼きだった。ある日、弁当の蓋をあけると、メザシが3匹入っていた。おかずはメザシだけだった。驚いたし少し恥ずかしかった。案の定、友達に冷やかされたが「うまい」と言って食べた。帰ってから、「メザシうまかった」と言って、父に空の弁当箱を渡した。父は、「卵がなかったから、晩酌のあてのメザシをいれた」と何故か、済まなそうに言った。翌日の弁当のおかずは、ポールウインナーを芯にした卵焼きだった。メザシを入れたことを申し訳なく思ったのか、父は給食の調理の方に、子供の喜ぶメニューを色々教えてもらったらしい。それから間もなく、父の弁当はなくなった。通学路にパン屋が出来て、パンが自由に買えるようになったこと。また、中学校の近くの八百屋には特大のいなりずしが売ってあり、私が昼休みに買いに行って食べることを先生方は大目に見てくれていることを父に話し、私から断った。

 そんな父との生活の中で、初めて父の為に料理を作った。必ず晩酌する父に、酒のあてになるものが作れたらいいなと思っていた。何気なしにTVの料理番組を見ていたら、「おでん」の作り方を放送していた。これなら私でも作れるなと思い、早速八百屋に行って、おでんの材料を仕入れた。練り物とコンニャクだけの「おでん」だった。帰宅した父は、私がおでんを作ったと聞いて、驚き且つ喜んでくれた。早速二人で食べた。何時にもまして酒量の増えた父はすこぶる饒舌だった。父の上機嫌な顔を見て、これから「おでん」だけでなく、もっと作って喜んでもらおうと素直に思った。

 その時の父の顔を思い浮かべる度に、< 料理は人を喜ばすことができる>と思っている。今もその気持ちは変わらない。料理人にはなれなかったけど、料理を作る楽しさ面白さだけでなく、料理をする醍醐味は、それ以後の私の人生の中で、確実に育まれているように思う。

Appendix

プロフィール

【名前】
おっちゃんヘルパー
【年齢】
65歳
【一言】
≪絆≫を大事に。
ヘルパーステーション
ケアプランセンター
お結び
お気軽にお問い合わせください。

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