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おでん

 記憶に残る料理というものを、私が初めて作ったのは中学2年生の晩秋だった。

 初夏から盛夏にかけて、母と祖母が相次いで亡くなり、弔いの儀式が全て片付いたのが冬の足音が聞こえてくる頃だった。兄は勤務地の茶屋町に、大学生の姉は大阪へとそれぞれの生活に戻り、父と二人暮らしが始まった。教員をしていた父は、母の病気を機に、県北の井倉小学校から隣接の玉島の寄島小学校に勤務地が変わっていた。隣接しているとはいえ、バス・電車に頼っていた時代のこと、バス・電車を乗り継いでの通勤時間は、1時間以上は優にかかっていたと思う。たどり着いてから私の為に夕食を作り始め、夕食が始まるのが8時は過ぎていた。父にとって、50歳過ぎてから始まった私との二人暮らしの生活は随分と過酷なものだったように思う。

また、中学校は給食ではなく弁当が決まりだった。父にそのことを話すと、「明日から作る」と言って朝早くから用意をしてくれた。定番のおかずは卵焼きだった。砂糖のきいた甘い卵焼きだった。ある日、弁当の蓋をあけると、メザシが3匹入っていた。おかずはメザシだけだった。驚いたし少し恥ずかしかった。案の定、友達に冷やかされたが「うまい」と言って食べた。帰ってから、「メザシうまかった」と言って、父に空の弁当箱を渡した。父は、「卵がなかったから、晩酌のあてのメザシをいれた」と何故か、済まなそうに言った。翌日の弁当のおかずは、ポールウインナーを芯にした卵焼きだった。メザシを入れたことを申し訳なく思ったのか、父は給食の調理の方に、子供の喜ぶメニューを色々教えてもらったらしい。それから間もなく、父の弁当はなくなった。通学路にパン屋が出来て、パンが自由に買えるようになったこと。また、中学校の近くの八百屋には特大のいなりずしが売ってあり、私が昼休みに買いに行って食べることを先生方は大目に見てくれていることを父に話し、私から断った。

 そんな父との生活の中で、初めて父の為に料理を作った。必ず晩酌する父に、酒のあてになるものが作れたらいいなと思っていた。何気なしにTVの料理番組を見ていたら、「おでん」の作り方を放送していた。これなら私でも作れるなと思い、早速八百屋に行って、おでんの材料を仕入れた。練り物とコンニャクだけの「おでん」だった。帰宅した父は、私がおでんを作ったと聞いて、驚き且つ喜んでくれた。早速二人で食べた。何時にもまして酒量の増えた父はすこぶる饒舌だった。父の上機嫌な顔を見て、これから「おでん」だけでなく、もっと作って喜んでもらおうと素直に思った。

 その時の父の顔を思い浮かべる度に、< 料理は人を喜ばすことができる>と思っている。今もその気持ちは変わらない。料理人にはなれなかったけど、料理を作る楽しさ面白さだけでなく、料理をする醍醐味は、それ以後の私の人生の中で、確実に育まれているように思う。
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プロフィール

【名前】
おっちゃんヘルパー
【年齢】
65歳
【一言】
≪絆≫を大事に。
ヘルパーステーション
ケアプランセンター
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